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歌川国芳の世界:歌川国芳

歌川国芳

歌川国芳は江戸時代の末期に活躍した絵師・浮世絵師です。歌川国芳は江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人と言えます。

歌川国芳が注目されるようになったのは20世紀の後半になってからのことです。歌川国芳は「幕末の奇想の絵師」と呼ばれ、今日では歌川国芳は高い評価を受けています。近代的な写実眼で描かれた歌川国芳の作品が高い評価を受ける理由のひとつになっています。

歌川国芳が人気絵師となったのは30歳過ぎです。大判3枚続きの絵に巨大な鯨や骸骨、化け物を描き、江戸庶民の度肝を抜きました。歌川国芳の落書き風の役者似せ絵「むだ書」や人体を組み合わせて顔などを描いた「寄せ絵」は近代漫画の始まりともいわれます。幕末期において西洋の透視図法を積極的に取り入れながら時代風刺も忘れなかったのが歌川国芳です。

歌川国芳が生まれたのは178911日。歌川国芳没年は明治維新が目前に迫った1861414日です。

江戸日本橋の染物屋に生まれた歌川国芳は、15歳で初代歌川豊国に入門します。入門の数年後、1814年頃から歌川国芳は役者絵や挿絵などの作品を発表を開始していますが、人気はあまり出ませんでした。歌川国芳の同門に歌川国貞という兄弟子がいたことも影響したようです。

歌川国芳30歳を過ぎて、当時人気のあった「水滸伝」をモチーフにした「通俗水滸伝豪傑百八人之一個(つうぞくすいこでんごうけつひゃくはちにんのひとり)」のシリーズを描いた歌川国芳の作品が人気となります。以後、歌川国芳3枚続きの迫力に富んだ武者絵などを次々と発表して「武者絵の国芳」の名を得ました。歌川国芳の武者絵では、ときに幕政への風刺を現し、歌川国芳の猫や金魚、人体などを遊び心たっぷりに描いた数々の戯画では人の意表をつく笑い、そして生き物に向けられた優しい眼差しによって、歌川国芳は幕末の江戸市民たちの共感を得ることができたのです。

歌川国芳は当時の様々な分野の文化人とも交流があり、画風にも当時の新知識を歌川国芳なりに研究・吸収した跡が見られるといえます。「忠臣蔵十一段目夜討之図」にはは未熟ながらも西洋画の透視画法を歌川国芳が学んだ跡が見え、画面に奥行きと緊張感があります。「相馬の古内裏」という作品に登場する巨大な骸骨は、歌川国芳が西洋の解剖学の書物を研究した成果だとも言われています。

歌川国芳の作品は役者絵、武者絵、美人画、妖怪絵、名所風景、戯画、春画までさまざまなジャンルにわたっています。歴史や伝説から題材を得て歌川国芳が描いたダイナミックな作品の中に、歌川国芳の本領がうかがえます。

また歌川国芳は無類の猫好きであったと言われ、歌川国芳は常に数匹の猫を飼い、懐に猫を抱いて歌川国芳は作画していたと伝えられるほどで、歌川国芳の作品には猫を擬人化したものも多くあります。猫に限らず多くの動物を擬人化して描き、歌川国芳は社会や幕府を風刺したり、江戸の庶民の生活を表現していたりしました。

また「むだ絵」や「寄せ絵」といった遊び心たっぷりの作品を多く描いていたのも歌川国芳の特徴と言えます。

質素倹約を旨とした天保の改革以後、禁令によって役者や遊女の一枚刷りの錦絵は出版できなくなりましたが、歌川国芳は動物や魚の顔を役者の似顔絵にするなどして、様々な方法で歌川国芳は禁令をすり抜けて絵を出版していたのです。